日本人の心意気を歌おう。万葉集・古今和歌集・般若心経から枕草子・徒然草・方丈記・奥の細道、そして夏目漱石・宮澤賢治までの日本の名文を高らかに歌おう。




万代弥栄の巻 目次
一の歌「万代弥栄の道(二宮尊徳先生・道歌より) 試聴は、ここをクリック

二の歌「般若心経・全文 試聴は、ここをクリック

三の歌「君死にたまふことなかれ」(与謝野晶子) 試聴は、ここをクリック

四の歌「雨ニモマケズ」(宮澤賢治) 試聴は、ここをクリック

五の歌「早く帰って来てください」(野口シカ) 試聴は、ここをクリック

六の歌「詩画ある人の世に」(夏目漱石) 試聴は、ここをクリック

七の歌「無事長久の道」
(伝・家康公) 試聴は、ここをクリック

八の歌「永訣の朝」
(宮澤賢治) 試聴はここをクリック

一の歌「万代弥栄の道」

………二宮尊徳先生「道歌選」より

まけば生え植うれば育つ天地の

 あはれ恵みのかぎりなき世ぞ

春植ゑて秋のみのりを願ふ身は

 いく世経るとも安さ楽しさ

めしと汁木綿着物は身をたすく

 その余は我をせむるのみなり

我といふその大元を尋ぬれば

 食ふと着るとの二つなりけり

苦と楽の花さく木々をよく見れば

 心の植ゑし実の生えしなり

生き死にと世のはかなさをよく見れば

 氷と水と名のみかはりて

山々のつゆあつまりし谷川の

 ながれ尽きせぬおとぞ楽しき

花の実をまいて幾代の末までも

 ともに楽しむ人ぞ尊き

二宮先生の他の道歌の歌ったものは「道の巻」に随時、更新して

いますので、そちらの方もお聞き下さい。

歌の解説

 日本の全歴史を通じてのスーパースターは誰かと問えば、私は即座に二宮尊徳先生を挙げる。その生き様、その志の高さに惚れ込んでいるからだ。武士でもなく、まして殿様でもなく、父母に死別されてしまった一介の孤児が、どん底の境地から身を起こし、自分の家を再建したのみならず、貧に苦しむ荒れ果てた村々を六百余りも立て直すという超人的な力は、いったいどこから出てきたのだろうか。そして、その尊徳先生の思想である報徳思想が、砂漠にふる慈雨のように人々の心に染み入り、ひとたび報徳思想に目覚めるや、その人を奮起せしめ、事業を成功へと導いてやまないその魅力は、どこにあるだろうか。

 今日、日本は経済大国となったが、経済活動の根底を支えている思想といえば、報徳思想にほかならない。勤労・倹約・推譲・自他両全・積小為大という報徳五項目を実践してきたがゆえに、日本製品は世界に冠たる品質を確立し、信用されているのである。

 われら日本人の中から、江戸時代の熟成期間を経て、二宮尊徳先生のような人が出たということは、決して奇跡ではない。それは葦原の瑞穂の国の必然だったのだ。われら日本人は、この日本列島に、万民が万代にわたって共に栄える国を築きたいと願ってきたのだ。その思い、その願い、その志が、何千年何万年と熟成され、ついに二宮金次郎という男に乗り移り大爆発を起こしたのだ。生ける尊徳先生は荒れた村々を再興した。死んでそのまま神となった尊徳先生は、報徳思想となって、われら日本人の行く末を導いてくれている。

 「蒔けば生え植うれば育つ天地の あはれ恵みの限りなき世ぞ」と、まず天地の恩に感謝し、大自然の力を活用し、「めしと汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるのみなり」と慎ましく生き、余計なものを生産しなければ、万物万民はこの地球上で万代まで楽しく暮らしてゆけるのだ。

今こそ、万代弥栄の道を邁進しよう
 二宮先生が、その70年の生涯を通じて世に示してくれたものは、自分の分度を守り、勤労に励み、未来に備えて倹約し、余ったものは、子孫・社会に推譲してゆけば、この世は万代にわたって弥栄に栄え、生きながらにして極楽浄土に住むことができるのだと言う事です。
 たとえば、天保8年(1837年)に大坂では大塩平八郎の乱が起きました。この乱の直接的な原因となったのは、冷害による米の不作となった天保の飢饉でした。大塩平八郎は、その決起の檄文では、無慈悲な役人・商人に天誅を加え、彼らの蔵から金米を奪い取って、困窮した民衆に分け与えるのだと記した。乱の顛末は、知ってのとおり、あっけなく終わりました。それによって、一粒の米が増えたわけではありませんでした。
 ちょうど同じころ、二宮先生は、報徳記によれば、天保4年の初夏、ある時、茄子を食べたら、秋茄子の味がしたそうだ。それで、箸を投げて、嘆いて、こう言った。「今、時節は初夏だというのに、これがもう秋茄子の味をしているのは、ただごとではない。これによって考えれば、夏の陽の気が薄くて、陰の気がすでに盛んになってきているのだ。これでは米が豊熟できるはずがない。今のうちに非常の場合に備えておかなければ、民衆は飢渇の災いにかかるかも知れない。」と。そこで、村々に触れを出して、こう言った。「今年は五穀が熟作できない。今のうちに凶荒の備えをせよ。一戸ごとに畑一反歩ずつ租税を免除するから、すみやかに稗を蒔き、飢渇を免れる種にせよ。うっかりしていてはならない。」この二宮先生の「先見の明」によって、村々の民衆は稗によって食糧不足を補い、一人として餓死したものは出ませんでした。
 このように、同じ天保の大飢饉にあっても、その処し方ひとつで、かたや飢餓地獄になったり、かたやいつもどおりの豊かな生活を楽しめたりと、道は分かれてしまうのです。
 さて、現在の日本のおかれている状況は、天保の大飢饉以上に深刻です。食糧自給率が4割以下という国は、すでに国としての独立を失っています。いったん世界のどこかで火山が大爆発し、世界的な冷害が起き、食糧の生産量が落ちたら、食糧を外国に依存している日本は、たちまちにして飢餓地獄と化すでしょう。「国に三年の蓄えがなければ、その国は国とは言えない」という言葉のように、現在の日本では、大豆も小麦も米も、その備蓄量は、数ヶ月分しかありません。いかに工業力を誇ろうとも、飢えたる腹を満たすものは、五穀しかありません。
 飢餓地獄になってその時はじめて、大塩平八郎のように、世界の食糧大国に向って、食糧を奪いに乱を起こすのか、それとも、二宮先生のように先見の明をもって、今日の今から、耕地放棄地・荒地・未利用地を徹底的に活用し、食糧の増産に努めるのか。未来の日本がどうなるかは、ほかでもない現在を生きている日本人一人ひとりの自覚と奮起にかかっているのです。
 日本という国土は、使い方を過たねば、世界に冠たる恵まれた国土です。豊葦原の瑞穂の国であり、国土の6~7割が緑の山です。先ず国土の大半を占める山は、三内丸山の縄文社会にならって、日本の潜在自然植生に適った本物の森に戻そう。栗やドングリをもたらしてくれる広葉樹林こそ、災害にも強く、食料不足にも役立つ山となります。落ち葉を活用すれば、田畑の肥料になります。日本の誇る発酵技術を駆使すれば、木の葉からアミノ酸を作ることができるようになるでしょう。そうすれば、あえて畜産・酪農をせずとも、タンパク質は確保できます。水田になるところは、米を作り、畑には大豆や野菜を作る。家々の庭には柿の木を植えておけば、干し柿として保存食糧に役立ちます。
 今日の日本人があくせくとしているのは、国の食糧自給率が4割以下であり、エネルギーの自給率に至っては5パーセントであり、常に生活の大半を外国に依存した国家運営をしているからです。二宮先生の道歌にあるように、「我といふその大元を尋ぬれば食ふと着るとの二つなりけり」なのです。日本人の生活の大元がいつも定まっていないので、世界の景気の変動に一喜一憂した、先のおぼつかない暮らしのため、落ち着きがないのです。
 日本は世界に冠たる恵まれた国なのです。山と平地を食糧生産の場として徹底的に活用すれば、森が育つ20年後には、食糧大国となり、緑あふれるこの世の極楽浄土となることでしょう。「春植ゑて秋のみのりを願ふ身はいく世経るとも安さ楽しさ」という境地こそ、万代弥栄の道であり、この道を実践哲学によって現実に示してくれた人こそ、二宮尊徳先生であり、この道をわれら現代人も一歩一歩着実に進んでゆけば、世界と戦わずして現実としての極楽浄土を築くことができるのです。

誠は天の道、これを誠にするは人の道

…二宮先生の肉声を記した唯一の書「駿州御厨郷中への教訓」より………

家をたもつのも

身を治めるのも

金銀の出来るのも

何も不思議はない。

誠の一つをもって貫くのじゃ。

誠は天の道

これを誠にするのは

人の道というものじゃ。

 

あわをまけばあわが()

麦をまけば麦が生え

米をまけば米が生える。

皆その通りに生命を正しうする

これを天の道という。

 

それをおのれおのれの勝手に

朝寝をしたり

遊んで食ったり

寝て居て食ったり

ぐたついて過ぎようとは

あわをまいても麦をまいても

米を取ろうとするようなもので

 

田にも畑にも 

ろくろくな夫食(ぶじき)もなさずにおいて

働かせようとするゆえ

去年のようなる凶作には

他人より先へ

夫食を天からお取り上げじゃ。

 

これがあわをまいてあわが生えたのじゃ。

田畑を飢えに及ぼしたから

おのれおのれも飢えに及ぶのじゃ。

何も不思議はない。

これが天の道じゃ。

かように善悪共に(むく)うじゃ。

 

さすれば飢えるとも(たお)れるとも

勝手次第にするがよい。

平生(へいぜい)田畑へ夫食(ぶじき)をたんとやって置いた人は

去年も今年も夫食(ぶじき)に差しつかえない。

米をまいて置いたから

米が取れたのじゃ。

皆々銘々精根(せいこん)次第の手細工じゃ。

それじゃによって

飢えるものは飢えても

(たお)れるものは斃れてもよけれども

 

同じ村に生まれて

同じ家内のようなお百姓同志なれば

家内の肉のけずれるのを見ていても

済まぬによって

有る者は この(せつ) 融通してやるがよい。

五十年に一度のことなれば

この節 人の命の救い時じゃ。

救うた者は忘れるがよし

救われた者は子々孫々まで忘れぬがよし

 

また御拝借五ケ年賦(ねんぷ)

銘々その日その日の家業の(ほか)

夜 なわなり草履(ぞうり)なり

また山付(やまつ)きならば定まりの仕事の(ほか)

朝起きして 炭なり何なり

それぞれ得手(えて)得手の余業を励み勤めるなり

世上一統申し合わせ大倹約をして

また祭礼 葬礼 仏事などにも

寺々への付け届けだけは 厚く相勤め

その外には

普請(ふしん)家作(かさく) 月待(つきまち) 日待(ひまち) 振る舞いごと

その外何事によらず 

不用の事 不用の品を少分(しょうぶん)たりとも求めること

一切慎むのじゃ。

このたび露命をつなぎし事忘れずば

五ケ年や十ケ年の倹約は

何でもなく勤まる倹約じゃ。

 

このところをよくよく感心して

本心に立ち帰り勤めさえすれば

何ほど凶作でも

凶年もないが、別に豊年もない。

 

ぜんたい年々豊凶は

六七月ごろより知れてあることじゃ。

いよいよ今年五分六分、

二分三分の陽気と見えたら

それぞれの暮らしをつけねばならぬ。

ことに凶年のこの辺は

二分三分と見定めても

それをうかうかと平年の

七分八分の暮らしをして居るによって

サア、狂言が(ちが)うのじゃ。

 

田畑の事ばかりじゃない。

何事もこの通り、

前々(まえまえ)より商売が不景気なら

その通り不景気の暮らし方を付けるべし。

その時々を計りて暮らせば間違いない

その振る舞いが違うゆえ

凶作が来たら にわかに目が()めたのじゃ。

 

皆 天の(おぼ)()しに(そむ)いたによって

かく難渋するのじゃ。

今日より天の言い付けどおりに守りさえすれば

返すがえすも言う通り

あわをまけばあわが()のり

米をまけば米ができ

()(たね)をまけば(さいわ)いが()のり

(わる)い種をまけば(がい)が実のるのは天の誠の道

これを誠にするのは

人の道なりとは報徳の事なり。


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 二の歌「般若心経・全文」

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

照見五蘊皆空 度一切苦厄

舎利子

色不異空 空不異色

色即是空 空即是色

受想行識 亦復如是

舎利子

是諸法空相

不生不滅 不垢不浄 不増不減


是故空中 無色 無受想行識

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界 乃至 無意識界

無無明 亦 無無明尽 乃至 無老死 亦 無老死尽

無苦集滅道 無智亦無得

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

心無罣礙 無罣礙故

無有恐怖 遠離一切顚倒夢想

究竟涅槃 三世諸仏 

依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

故知般若波羅蜜多



是大神呪 是大明呪

是無上呪 是無等等呪

能除一切苦 真実不虚

故説般若波羅蜜多呪

即説呪曰



羯諦羯諦 波羅羯諦

波羅僧羯諦 菩提 娑婆呵             般若心経


歌うべきものとしての般若心経

 近所に高名な寺があって、毎年春になるとお祭りがあります。その一つは「白隠まつり」で、かの有名な白隠禅師のお寺です。もう一つは真言密教系のお寺で、「火渡り」を行います。どちらのお祭りも、クライマックスになると、マントラのようなものを唱えています。よく耳を澄まして聞いていと、それがともに般若心経でした。

 このように般若心経は、日本では一番よく唱えられているお経ではないでしょうか。単純なリズムに合わせ難解な仏教用語を唱えていると、なにやら日常を超えた次元の世界へと誘われてゆくのでしょうか。

 そこで私も、覚えやすいように般若心経全文を歌にして、唄ってみました。般若心経の眼目は、最後のマントラ(真言)のところにありますから、ここは是非とも、サンスクリット語(梵語)で歌うべきでしょう。

 このマントラの訳を、中村元博士はこう訳されています。()は私の訳です。

羯諦羯諦   往ける者よ、往ける者よ  (行け、行け)

波羅羯諦   彼岸に 往ける者よ    (宇宙の中心へ行け) 

波羅僧羯諦  彼岸に 全く 往ける者よ(小さな自分を捨て去れ)

菩提 娑婆呵 さとりよ、幸いあれ (われらは永遠の命だ、ばんざい!)

 なに、これじゃあ、さっぱり意味が分からないって。これはマントラなのです。つまり、気持ちよく朗々と唱えたり、歌ったりすることによって、心身脱落の境地へと達するものなのです。ですから、従来のように菩提娑婆呵と小さな声で唱えいては、心経の効果が百パーセント発揮されないでしょう。きっとお釈迦様も悩める衆生を前にして、こう言ったことでしょう。「さあ、みんな、次のマントラを歌おうじゃないか、そうそう、腹の底から声を出して。宇宙の中心に届くように、大きな、大きな声で、力強く歌おうじゃないか。ほらね、スッキリしたでしょう。度一切苦厄とは、そういうことなんだよ。本来、君自身は光輝く存在だってことさ。すると、今までの小さな悩める君とは、君自身の頭が生み出していた夢想、幻だったってことさ。そういう転倒した夢想を、この歌をうたって、吐き出してしまおう。不生不滅の君に、スヴァーハー(幸あれ)」とね。そう、般若心経は歌うべきものだったのです。

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三の歌「君 死にたまふことなかれ」

………旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて………与謝野晶子

あゝをとうとよ、君を泣く、

君 死にたまふことなれ、

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも、

親は刃をにぎらせて

人を殺せと をしえしや、

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの

旧家をほこるあるじにて

親の名を継ぐ君なれば、

君 死にたまふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。

君 死にたまふことなかれ、

すめらみことは、戦ひに

おほみづからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獣の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに

君 死にたまふことなかれ、

すぎにし秋を父ぎみに

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に、いたましく

わが子を召され、家を守り、

安しと聞ける大御代も

母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を、

君わするるや、思へるや、

十月も添はでわかれたる

少女ごころを思ひみよ、

この世ひとりの君ならで

あゝまた誰をたのむべき、

君 死にたまふことなかれ。

歌の解説
 この詩は、明治三十七年二月十日の宣戦布告で始まった日露戦争のさなか、同年九月に発表されたものです。この詩でうたわれている晶子の弟は、明治三十六年八月に二十四歳(数え)で結婚したのもつかの間、三十七年に召集され、乃木希典率いる第三軍第四師団第八連隊にあって、旅順の攻略戦に従事していました。

野口シカさんの歌「早く帰って来てくだされ」が母から子への手紙に対して、この歌「君 死にたまふことなかれ」は、姉から弟への手紙ともみなせます。弟思いの姉が、世の常識を歯牙にもかけず、大胆に力強く、自らの心情を語った名文であります。

「弟よ、戦争などで死ぬな。お前は、お前に与えられた生命を全うし、生きて帰っておいで」という晶子の心情は、およそ生あるものの根源的な叫びです。それゆえ、この詩は、「日露戦争」のみならず、人殺しを本質とするあらゆる戦争に対して、生命の優越性を宣言するものであります。

戦争を好むのが男の論理であるならば、そんな人殺しの戦争など、いやだと言うのが太古からの女の本能でありましょう。案の定、この詩が発表されるや、男の言論界からは「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為である。かかる詩人は、乱臣なり。賊子なり」との非難が浴びせられましたが、晶子はこう反論されています。「女というものは、みな戦争がきらいなのです」と。また曰く、「私は、まことの心を、まことの声に出だし候より以外、歌のよみかた心得ず候」と。

明治三十七年とは、徳川さんの時代からわずかに一世代しか経っていない時代であります。「パックス・トクガワ(徳川による平和)」と賞賛されている平和な江戸時代265年間に比べて、明治時代は、日清戦争・日露戦争と十年おきに戦争を行っています。晶子はこのことを「安しと聞ける大御代も 母のしら髪はまさりぬる」と痛烈に皮肉っています。国民誰れもが、明治維新によって「安しと聞ける大御代」が始まったと思ったのに、明治政権は、平和に満ちた徳川時代の良き日本の伝統を断ち切り、徴兵制のもと日本国民を「獣の道」へと駆り立てたのです。それに対して晶子は、この一編の詩をもって、「それは人の道に非ず」と敢然と抗議したのです。

 この詩の重さは、戦争なき現代にも通用するものです。一見平和が続く現代の日本で、毎年3万人を超える人々が自殺しています。また、言語道断な殺人事件が後を絶ちません。これらはみな、生命の重さを見失った結果です。仕事やお金などよりも、その人の生命のほうが大切です。これは時代を超えた普遍的な価値観です。人生は戦いなどではない。お互いを思いやって、生きていることを楽しむものです。

君、死にたまふことなかれ

君、人を殺すことなかれ

君、自殺することなかれ
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雨ニモマケズ

………宮沢賢治・詩集より

(前語り)「春と修羅」より

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちんのいちめんの諂曲模様

まことのことばはうしなはれ

修羅のなみだはつちにふる

ああかがやきの四月の底を

はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(本歌)「手帳より 雨ニモマケズ」より

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシズカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテイイトイヒ

北ニケンクワヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイウモノニ

ワタシハナリタイ

 
歌の解説
 はじめの頃は気づかなかったのですが、賢治自身の手帳には、「ヒ
リノトキハ……」と書いてありますので、今回は、その通りに唄いました。世間に流布しているのは、「ヒリノトキハ……」ですが、賢治の時代はまだ温暖化が進んでいませんでしたから、「日照りの時は涙を流し」では、やはり違和感があります。作物の生育にとって日照りは最も大切なものだからです。特に寒い東北では「お日様」ほどありがたいものはないはずです。ここでは、日照りではなく「ヒドリ」という方言説を取りました。強い光によって目が赤く炎症してしまうことを「ヒドリクマ」とか言うのだそうです。すると次の、「涙を流し」という言葉が相応しいものになります。つまり、意味するところは、こうなるのでしょう。

「ありがたくも暑い日照りが続いて、稲はぐんぐんと成長してゆく。私は、喜びをもって、その稲の成長を片時もはなさず見守っていたおかげで、強い日差しによって私の眼はヒドリクマになって、涙が流れてしょうがないが、ええい、構うことはない。お天道様ほどありがたいものが、この世にあるものか。涙は流れるなら、流れるまままさ。

それに引き換え、寒い夏は大変だ。あそこの田んぼの稲も、ここの田んぼの稲も、全然育っていないぞ。私は、もう心配で心配で、空を見上げては、お天道様に、「どうか早く暖かく照ってくれ」と拝むばかりだ。暗い、不気味な雲の下を、私はあっちの田んぼへオロオロ、こっちの田んぼへオロオロと見回りながら、祈るばかりだ。

 と、このようにたった一字のデとドの違いによって、この詩の世界が一変してしまいます。つまり、ヒドリであるならば、その流れる涙は、日照りをありがたく思う「うれし涙」になります。次の「寒さの夏はオロオロ歩き」からすれば、ここは当然その反対の「寒くない夏、すなわち日照りが続く、あたたかい夏は、ありがたい喜ばしい夏」でなければなりませんから、「オロオロ歩き」の反対概念としては、「うれしくって涙を流す」となるでしょう。

 自分の田んぼでも畑でもないのに、稲などの生育を一生懸命喜んで涙を流したり、心配して天を拝んでオロオロ歩いていれば、その田んぼや畑の持ち主からは、「なんだか変な奴だなあ」と思われてしまうのは当然なのでしょう。でも、「ワタシ」は、そういう他人の視線を一切気にすることなく、ただ「永遠なる誠の者」の代弁者として、天に祈り、大地に代わって感謝してゆきたいのだ。「ワタシハ サウイウモノニ ナリタイノダ」と。

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五の歌「早く帰って来てくだされ」

………………………野口英世の母・シカの手紙より

おまいの出世には みな たまげました

わたしも よろこんで おりまする

中田の観音様に 毎年 夜籠りをいたしました

勉強 なぼしても きりがない

いぼしには 困りおりますが

おまいが来たならば 申し訳ができましょう

ああ 春になると みな 北海道に 行ってしまいます

わたしも 心細く ありまする

どうか 早く 来てくだされ

金をもろったことは 誰にも聞かせません

それを聞かせると みな 呑まれてしまいます

ああ 早く 来てくだされ

早く 来てくだされ

早く 早く 来てくだされ

早く 早く 来てくだされ

一生の頼みでありまする

西さ 向いては 拝み

東さ 向いては 拝みしております

北さ 向いては 拝みおります

南さ 向いては 拝んでおりまする

一日には 塩断ちをしております

えしょう様に 一日には 拝んでもろっております

何を忘れても これ 忘れません

写真を見ると 頂いておりまする

ああ 早く 来てくだされ

何時 来ると 教えてくだされ

これの返事を 待ちておりまする

寝ても 眠られません


歌の解説

 この手紙は、明治四十五年に、会津の猪苗代湖に住む母・野口シカが、ニューヨークにいる息子・野口英世あてに送られたものです。医学研究のために渡米して一度も帰ることなく、早十二年になり、研究の成果が認められて今や「世界の野口英世」となった息子に、「早く帰国して、母にお前の顔を見せてくだされ」と、懇々と頼んでいる手紙です。実物の手紙のコピーを上に掲げておきましたので、ご覧ください。とても達筆と言えませんが、情の籠もった、しっかりとした字体であり、真心が文面から溢れ出てきています。私の母親の字にすごくよく似ていて、これを見ると、亡き母を懐かしく思い出されます。

 世の中で一番ありがたい存在は母親ではないでしょうか。私たちは、この世が愛に満ち、人生とは生きるに値するものだと最初に感じさせてくれるものは、すべて母の存在を通してでしょう。

 どんなに出世して、「世界の野口博士」となっても、母・シカにとっては、この世でただ一人の息子であります。野口博士にとっても、ただ一人の母親であります。この母と子とが、時空や次元を超えて強い絆で結ばれていることが、本来の人間なのです。岡本かの子の和歌に、「この世なる えにし深くして母よ子よ 和み暮らさん短きこの世」と、ありますが、母と子との間の縁がさらに大地、大空、宇宙万物一切へと拡大してゆくところに「もののあはれ」の心が発達してきます。

野口博士はこの手紙に触発されて帰国したことは言うまでもありません。

帰りなん、いざ、

母まさに老いんとす。                         

【語句の注釈】

いぼしには困りおりますが……えぼし村の人から、お金を返せといわれて困っていること。。


それを聞かせると、みな呑まれてしまいます……シカの夫の佐之助が酒呑みなので金が入ったことが分かると、酒を買うために金を取られてしまうこと。


えしょう様には……修験道の行者の名前。


写真を見ると、頂いておりまする……息子の写真に対し、ありがたさの余りに、その写真を頭の上に捧げているという意味

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六の歌詩画(はな)ある人の世に」

………「草枕・冒頭より」夏目漱石

山路(やまみち)を登りながら、こう考えた

()に働けば(かど)が立つ

(じょう)(さお)させば流される

意地を(とお)せば窮屈(きゅうくつ)

とかくに人の世は住みにくい

住みにくさが(こう)じると

安い所へ引き越したくなる

どこへ越しても住みにくいと(さと)った時

詩が生れて、()が出来る

人の世を作ったものは

神でもなければ鬼でもない

やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらする

ただの人である

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて

越す国はあるまい

あれば人でなしの国へと行くばかりだ

人でなしの国は人の世よりも

なお住みにくかろう

越すことのならぬ世が住みにくければ

住みにくい所をどれほどか

寛容(くつろげ)て、(つか)()の命を

束の間でも住みよくせねばならぬ

ここに詩人という天職が出来て

ここに画家という使命が(くだ)

あらゆる芸術の士は

人の世を長閑(のどか)にし

人の心を豊かにするが(ゆえ)(たっ)とい


歌の解説

夏目漱石の小説の中で、最も人口に膾炙されている文章が、この一の歌で取り上げた「草枕」冒頭の文章でありましょう。「智に働けば角が立つ」「情に棹させば流される」「意地を通せば窮屈だ」という文句は、そのまま現代の諺みたいになっているくらいです。こういう文句は、漱石の時代にもあったのでしょうか。それとも、漱石が独自に創造したものなのでしょうか。とにかく、歯切れのいい文章から出来ているこの「草枕」冒頭の文章は、詩や画という芸術の存在意義を簡潔にのべ、詩人や画家というもののありがたさを端的に説明し尽くしています。

私は、高校時代に漱石を読んだ時、何だか訳も分からずに「則天去私」とか「非人情」とかの言葉に憧れていました。はや還暦を迎えるような年に達してみて、ここで述べられている「とかくに人の世は住みにくい」ことを実感しております。老後はハワイで暮らそうかとか、人里離れた山奥に住もうかと、あれやこれやと空想を巡らしながらも、ひたすら人口過密な日本に住み続けております。漱石の時代の頃の人口は四千万人くらいだったでしょうか。今やその三倍の一億三千万人です。これはもう、日本列島の収容能力の限界をはるかに超えています。日本はおろか世界中、越す国などどこにもありますまいと観念いたしている次第です。

さて、詩や画、はたまた音楽や他の芸術作品は、本当に束の間の人生を豊かにしてくれるものでしょうか。そういうものこそが、芸術の名に値する真の芸術だと、漱石は主張しているわけですが、そういう芸術家や芸術作品に巡り会えることこそ、この世の僥倖とせねばなりますまい。つまり、「商品」としての芸術作品があまりにも多い現代にあっては、なかなかそのような芸術作品に出会う機会は少なくなっています。

 しかし、何も「真の芸術」は人間の創造物だけとは限りません。むしろ、「則天去私」の観点に立って、この宇宙全体に思いを致すなら、「真の芸術」は、ほら、いたるところに花開いていることに気づくでしょう。たとえば、音楽です。人工的な平均律の楽器の音色よりも、自然な純正律の音色に満ちた秋の虫の音や波の音、風のそよぎや、しずけさそのものの中にも、心身の疲れを癒してくれるものが、いっぱいあります。わざわざ音楽ホールに出かけずとも、夜のしじまに耳を澄まし、目を閉じ、自分を無限の宇宙に漂わせてみれば、束の間の命が永遠の命だったんだと思える一瞬を体験することができでしょう。世間の常識とか、宗教の呪縛とか、マスコミによる洗脳によって「限定せられた小さな私」を去り、天すなわち、あるがままの宇宙自然と一体になったとき、見るものが画となり、感じることが詩となるのだと、今の私はそう思っています。「人の世を長閑にし、人の心を豊かにする」歌を、私も歌ってゆきたい。
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七の歌「無事長久の道」
……「東照宮御遺訓」より

人の一生は

重荷を負て遠き道を行くが如し

急ぐべからず 

不自由を常と思へば不足なし

心に望おこらば

困窮したる時を思ひ出すべし

堪忍は無事長久のなり

怒りは敵と思へ

勝つことばかり知りて

負くること知らざれば

害その身に到る

おのれを責めて

人を責むるな

及ばざるは過ぎたるより勝れり


歌の解説

 東照公すなわち徳川家康公の御遺訓と伝えられる文章です。実際のところは、尾張徳川家の徳川義宣氏の考証によると、明治11年に旧幕臣の池田松野助という人が、水戸の徳川光圀公の遺訓とされる「人のいましめ」を元に書いたものものだそうです。

 しかし、この文章の内容は、家康公の堅忍自重の一生と相俟って、読む人をして、なるほど家康公らしい人生訓だと、妙に納得させられるものがあります。

 全編通して言えることは、与えられた命を無事に全うし、健康長寿を達成するには、どういう道を歩むべきかということです。そのための心構えとしては、

①人生は長い、急ぐな、あせらず、のんびりと歩め

②不足を嘆くな、足るを知れ  

③ならぬ堪忍、するが堪忍だ

④勝つことばかりに執着するな 

⑤時には負けることも必要だ

⑥他人を責めず、まず自分の至らなさを反省しろ

⑦ものごと万事、不足しているくらいが丁度いいのだ

と、説いているのです。

これらの一条一条、誠に適切な人生訓です。為政者のみならず、百姓町人みな、おおかたこのような人生訓を「その通りだ」と認める共通の意識の上に立っていた日本社会は、きわめて正常な社会だったのです。故にパックス・トクガワ(徳川の平和)265年も続いたのです。おのれを責めて、人を責めず、切腹を潔しとするのが武士道、つまり上に立つ者の道であったのです。

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四の歌「永訣の朝」………宮澤賢治

けふのうちに

とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆぢゆとてちてけんじや)

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

(あめゆぢゆとてちてけんじや)

青い蓴菜のもやうのついた

これらふたつのかけた陶椀に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

(あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

ああとし子

死ぬといういまごろになつて

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

わたくしもまつすぐにすすんでいくから

(あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから

おまへはわたくしにたのんだのだ

銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを

………ふたきれのみかげせきざいに

さびしくたまつたみぞれである

わたくしはそのうへにあぶなくたち

雪と水とのまつしろな二相系をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

(Ora Orade Shitori egumo)

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

あああのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

(うまれでくるたて

 こんどはわりやのごとばかりで

 くるしまなえよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが兜卒の天の食に変つて

やがてはおまへとみんなとに

聖い資糧をもたらすことを

わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ

歌の解説
 この三の歌は、兄・宮澤賢治が妹・とし子の死を悼んで書いた一連の挽歌の最初の詩です。この詩のあとも、賢治は、妹とし子のために、「松の針」「無声慟哭」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」と、長編の挽歌を書いています。それほどまでも、妹の死が賢治の人生に決定的な影響を与えたのでしょう。

 万葉の昔から、人が長編詩を書く時は、このような挽歌なのです。万葉の柿本人麻呂の挽歌はいささか形式に流れ、生き残った側の個人の心情が不完全燃焼していますが、賢治のこの挽歌は、身近で、信頼しあっていた妹の迫り来る死を「空からのみぞれや雪」という象徴に託して劇的に歌い上げています。兄と妹が、生と死との別の次元に別れてしまうその瞬間を歌ったものとして、これは絶唱中の絶唱です。

 私が一番好きなところは、やはり最後の祈りの部分です。「お前が食べる二椀の雪に、私は今、心から祈る。どうかこれが兜卒の天の食に変わって、やがてはお前とみんなとに聖い資糧をもたらすことを、私の幸いをかけて願う」と。もはや変えることのできない運命に対して、私たちのできることは、このように自分の存在のすべてをかけて祈ることしかありません。その祈りが天に通じて、雪が「聖い資糧」となって、あの世に行ってしまう妹や、その天の仲間たちの食べ物になってくれ、という賢治の願いは、きっと通じたに違いありません。

 この詩では、人間も宇宙も一つながりの存在であることが示されています。死にゆく妹のために天も感応し美しい雪を降らしてくれていると、賢治は太古の縄文人のように感じることができたのです。
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